1. HOME
  2. ブログ
  3. スタッフブログ
  4. フレーム越しの風景 ~リフレーミングへのご招待~

BLOG

スタッフブログ

スタッフブログ

フレーム越しの風景 ~リフレーミングへのご招待~

上履き袋を振り回しながら歩いている小学生がいました。私もあんな感じで歩いていたように思います。

あれは、確か小学1年生の1学期の終業式、だったかな…。

4月には自分たちの入学を歓迎するかのように揺れていたチューリップが、いつしか花びらを落とし、茎とめしべだけの姿になってしばらくした頃、先生と一緒にそれを掘り起こして、球根を見つけてはカゴに入れるという作業をしました。それを先生が2個ずつ小さな紙袋に入れて、明日から夏休みというときに、「来年の春には自分たちの家で花を咲かせましょう」と渡してくれました。

いつ植えるのかな?

先生が夏休みの宿題のプリントを配り出したとき、ふとそんなことを思った記憶があります。きっと先生は説明していたのでしょうが、その小さな玉ねぎのような球根がかわいくて、袋の中を覗いていて聞き逃したのだと思います。

ブログをご覧頂いているみなさま、こんにちは。私は主に発達障害・精神障害の方々の就労支援をしておりますペガサス平塚センターの宇佐美です。今日はちょっと私の昔話にお付き合いください。

リフレーミングとの出会い

私の出身は福島です。通学路は田んぼの広がるのどかな道でした。しかし、私は学区のいちばん端っこから通学していたので、その距離は片道2.5kmもありました。高学年ならともかく、低学年には長すぎる道のりで、「疲れる」どころか、「歩くことに飽きてしまう」距離です。ランドセルを家に置いて遊びに行くというのは、当時「半ドン」と呼ばれた土曜日くらいで、あとは学校の帰り道が遊び場でした。シロツメクサで冠を作るくらいならかわいいものですが、田んぼの畦道でザリガニを捕まえたり、山肌にぽっかりと空いた小さな洞窟に潜ったりと、まっすぐ帰った覚えはありません。

明日から夏休み。午前中で終わったはずですから、急いで帰って昼食をとってから遊びに行けばよいものを、今度は大量の荷物に足が前へ進みません。大量の荷物とランドセルはやはり土手において、田んぼの畦道で鬼ごっこです。すくすくとまっすぐ伸びた青々とした稲は、ちょっとかがんだ小学1年生の小さな体をすっぽりと隠せます。隠れながら移動するという、かくれんぼと鬼ごっこが融合した遊びはなかなかスリリングなものでした。

ひとしきり遊び、さて帰ろうとして荷物を持ち上げたとき、私は上履き袋を振り回しました。とその瞬間、自分の手から上履き袋は離れ、大きく弧を描いて宙を飛び、そして用水路へと落ちてしまいました。そこはいつもかなりの水量が勢いよく流れていました。上履き袋は浮きながらも、ずんずん流れ、そしてあっという間に見えなくなってしまいました。

そのあとの帰り道や、友達との会話は、全く覚えていません。

ただ、その上履き袋に、先生からもらった小さな球根がふたつ入っていたことを思い出し、紙袋に入ったままでは芽が出せないと、球根に感情移入して息苦しくなったのだけは妙に覚えています。上履きも上履き袋もなくしてしまったわけですから、母に怒られることもきっと覚悟したことでしょう。いろんな感情を抱きながら、母に事の顛末を話した私は、きっと自分でも処理しきれない涙を流していたのだろうと思います。

「用水路に落ちたのが上履き袋でよかった」

怒るどころか安堵の表情を浮かべた母の反応は、当時の私にとってはとても意外なものでした。

「流れついた先で、きっときれいなチューリップが咲くよ」

さらに思いがけない母の言葉に、川のほとりで赤いチューリップが咲くという、当時私の思い描いた妙に美しい光景は、むろんこの目で見たわけでもないのに、不思議と今でもありありと思い浮かべられます。

否定的なフレームをはずすこと

リフレーミング。

フレームを改めてつけ直してみること…リ・フレーミング。

この仕事に就いて、いろんな困りごとを抱えている方々にお会いして、知った言葉のひとつです。ご自身の弱みばかりに目が向いてしまい、全く強みが見つけられない方に特におすすめしている視点をかえる方法です。

否定的なフレームをずっと自分に押し当てていると、その否定のフレームでしか自分を見つめられなくなるものです。そんなときには、思い切ってそのフレームを外すこと。そして肯定的なフレームをかけて直してみること。

「せっかちなんですけど…」と仰る方には、「すぐ行動に移せるところは魅力ですよ」とお伝えしたことがありますし、「優柔不断なんですけど…」とことを決めかねている方には、「慎重に物事を考えているのですね」と声をかけながら、その巡り巡る思考にじっくり耳を傾けたこともあります。

「せっかち」を「行動力がある」としたり、「優柔不断」を「慎重だ」とするのは、決して言葉遊びの類ではなく実際にそうなのであり、つまり視点をかえることができることこそが大切なのです。

心を救うリフレーミング

リフレーミングとは、弱みから強みを見つける際のきっかけになるだけでなく、日々の暮らしの些細なことから幸せを抽出するヒントになったり、時には苦境から光を見つける手立てにもなり得るのです。

一点だけを見つめて、それだけで全ての物事を判断してしまう…それはとてももったいないことだと思います。

用水路に落ちたのが上履き袋でよかった。

この言葉の裏に、子の落下を危惧した親の思いを汲めるようになったのは、それからしばらくしてからのことだったと思います。言うなれば、これは最大のリフレーミングだったのかもしれません。

しかし、それ以上に当時、私の心を救ったのは、流れに流れて行きついた川のほとりで、悠々と花を咲かせた空想の中のチューリップの姿だったのです。「小さなプランターで咲くよりもきっと幸せだろう」と、そんな言葉を母は付け加えたようにも思います。

どうにもならない出来事や受け入れがたい出来事に出会ったときこそ、それをどうにかしようと必死になるのではなく、一度フレームを外してみること…それは苦しい自分を救うことにつながると思うのです。

リフレーミング…それはフレームの存在を意識できないと実行できません。自分の見ている風景はひとつのフレーム越しなのだと、フレームの外には自分のまだ見ぬ光景があるのかもしれないと、そんな意識を常に持ちたいと思います。

関連記事